日土水むらとは? どこにつくるの?

福岡で活動する日土水むらについて紹介

日土水むらをどこかに作るわけではありません。

セカイムラ(レイビレッジ)ときこえ村など、現実にあるコミュニティはありますが、それは日土水むらが目指すところではありません。

理由はカルト化する可能性があるからです。カルト化とは、カリスマがいてカリスマの絶対論にしたがい、ルールをつくり、そのルールにしたがっていれば安全・安心と思う人が集まることです。

そういう人は従順です。ただ、自分はなにもせず、ただ与えられるのを待つだけだったりします。

あこがれるより、ねたむ傾向が強く、出ようとする杭を引っこませようとします。悪気はありません。それがその人のためと本気で思っています。

目立つこともなく、かといって落ちこぼれず、うまく大勢にまぎれます。これは中間意識という意識体にとりこまれた人の生存戦略で、カルト化した信者の考え方です。

ただ、それが正解かというと、これからは不正解じゃないでしょうか。

自分の頭で考え、自分はどう生きたいかを自分の意思で決めて、自分の足で歩いていくことが、これからの正解だと僕は思っています。

なんていうと偉そうですね。ただ単に組織をつくって、それを運営する能力も意思もないからです。

平たくいうとメンドクサイからです。

日土水むらをどんな人でつくっていくか?

僕はヘリオセントリックの星読みやサウンドソウルズ®、タッチフォーヘルスという技術でカウンセラーみたいなことをしています。

そもそも友達をつくらない性格というのもありますが、友人といえる人たちは関東にしかいなくて、福岡での人脈はゼロでした。そこから手さぐりではじめました。

一人じゃきついなぁと思ったのと、起業って大変だなぁというのが感想です。

で、いまの日本の社会で生きるなんて、バチボコにムリ。いまの社会の仕組みにワタシはハマれない。かといって仕組みから出るのもムリ。ぜったいできない。

そう考えていて、起業をしたり、自分の好きなことをする手前で止まっている人がほとんどだなぁと感じています。

ワタシはなにをしたいのかしら、そもそもなにができるのかしら。

いやなにもできるわけがない。いまもこれからも。でも、なんだろう。心のなかにいる、もう一人の自分はちがうと叫んでいる。

叫んでいるのはわかるけど、ワタシにはなにもできないの。お願いだから叫ばないで、どうか泣き止んで。もう一人のワタシ。

あぁこんな状態。もううんざり。どうすればいいのかしら。

と心のなかで思っているようです。これって社会の問題じゃないか、これを解決できたら楽しいだろうなぁと考えています。いわゆる女性が女性らしく輝いて生きられる社会です。

それを日土水むらで解決できればいいなぁと思っているわけです。

日土水むらでやることの一つはゆる〜くふわっと起業サポート

社会で生きるのがつらい。
社会の枠組みにハマれない。

そんな人がぬけだせる時代にはなっています。

たとえばSNSマーケティングという手法です。ただ大変です。たとえば占いやカウンセリング、なにかしらのセラピーで生計をたてるには、フォロワーが2,000人くらい必要とされています。

難しいわけです。時間がかかるわけです。じゃあみんなでわけあえばいいんじゃないかと思うわけです。実際そうやっている人たちもいます。そうやっている人たちもいますよね。

SNSでも、一人ひとりのフォロワーが少なくても、仲間どうしでフォロワーをわけあえばラクです。はじめたばかりの人をみんなでサポートする仕組みがあれば、一歩ふみだせる人もいるんじゃないでしょうか。

SNSはフォロワーの5%くらいが自分のお客さんになるとされています。残りの95%は別のモノが欲しいのです。その95%にむけて、自分のSNSなどでだれかのサービスや商品を紹介するなどして、誰かの起業をサポートします。

なにか自分にできそうなことで誰かの起業をサポートします。そうやってサポートしあう、応援しあうコミュニティとして日土水むらを発展できればなんて思っています。

でもって、そのお礼をケーロでしあって、ケーロでモノやコトを循環させて、たどりつくのはケーロで生活が成り立つ人たちのコミュニティです。

みんなで寄ってたかって、誰かの成功を応援する。自分のできる小さなことでも、みんなでやればそこそこ大きなチカラになります。

そんなコミュニティを社会のあちらこちらに作っていくことが、いまのピラミッド社会で生きるのがツライ人を助けることになるはずです。

その先に、お金が前提でまわるいまの社会の仕組みの崩壊、そして、その先にお金のいらない社会じゃないでしょうか?

お金のない世界

以下は引用です。(佐々木明里さんのFBより)

お金のなくなった世界で、働き方はこう変わるんじゃないかな、というイメージがあるんです。

そのときは、そもそも働くことは、お金のため、生活のためではなくて。 働かなくても生きていけるから、働く必要はないの。 だから、働くというよりも「自分の想いを表現する」活動になっているんだ。

自分の表現したいことを形にしたい、だったり、 誰かを喜ばせたい、だったり。 シンプルになるんだと思うんだ。 そして、縛られなくてもよくなる。

たとえば、飲食店。 美味しいものをつくるのが好き。 食べてもらうのが好き。 みんなに食べに来てもらえるように、お店ができて。 もちろん一人でもお店はできるけど、 料理を運んだり、手伝ってくれる人がいると、 たくさんの人に料理を届けられる、と考えるかもしれない。

今みたいな「ホール(ウェイトレス)」って働き方もあるかもね。 でもね、その形も変わっているんだと思うんだ。 だって、「時給」も、ないんだし。 もっと、自由になると思うの。 のんびりしてると思うんだ。 「勤務時間」という考え方がなくなるから、 お店にいる間じゅう、いわゆる「仕事」をしてなくてもいいんじゃないかって。

たとえば、お客さんのいない間、少ない間、 片隅で勉強してたり、 趣味のぬいぐるみでも作ってたり。 「ちょっと洗濯物干してきまーす」って出かけるのも、普通のことかもしれないな。 で、お客さんが来たら「はーい」って出て行くの。

まぁ・・・ なんかもうその頃には「お客さん」って意識もない気がするんだ。 「これは、誰の仕事」っていう感覚がなくなってると思うの。 仕事の中でも「所有」の概念がなくなってる。 だから、お客さんも「私、今日暇だから、お皿洗うの手伝うよー」とか、 初めてきたお店でも、気軽に手伝ったりするの。 常連さんなんかは、ホールの子に、 「○○ちゃん、今日は私が代わりにお店手伝うから、どっか好きなとこ行っておいで」とか。 お店の料理手伝いながら、オーナーにお料理教えてもらいたいって人もでてきて、 そのうち、お店の料理覚えちゃって、ちょっとくらい代わりにお店に立てるようになっちゃったりして。

オーナーですら「今日はよろしく!」なんてお店から自由になってたりするかもね。 でも、それで「みんなが好き勝手にやって、お店が上手くいかなくなる」ってことはないんだよ。 だってそこのお店を手伝う人はみんな、 そのお店が好きでそこにいるから。 お店の人のために、自分も一緒に何かしたい。 いつも美味しいものを食べさせてくれてるから、ありがとうって気持ちを表現したい。 みんなでそのお店を、お店を作っている人たちを支えているんだ。 このお店のために、できるだけのことをしたい。

それこそ「責任感」というものかもしれないね。 だから、みんなが幸せなんだよ。 自分の想いを生きる幸せなのかもしれない。 仕事というより、そのときそのときの自分の表現であるんだ。

道端では、イーゼルを出して風景を描いている人がいる。 別にその人も、画家というわけじゃないんだけど、 絵が好きで、今日はその場所で描きたくなったから、描いているだけ。 そして、通りがかった人が、 「その絵いいね」って言って、持っていく。 たまたま誰も通りかからなかった日は、 そのままそこに置いていくと、 いつの間にかそれは、誰かが家に飾ってる。

何かをつくろう、って誰かが言い出したときには、 自然と人が集まってくる。 あそこの家に赤ちゃんが生まれるから、 小さなベッドをつくったら、喜ぶんじゃないかなぁ。 一人がそうつぶやくと、 「ああ、いいね。じゃあ、設計図ならかけるから、図は僕がやるよ」 「時間がないからつくってはあげられないけど、道具なら貸してあげられるよ」 「久しぶりに、大工仕事もいいわね。私がやろうか?」 「木が必要だなぁ、ちょっと木材屋さんに頼んでみよう」 そんな感じで、 得意な人が集まってきて、あっという間に始まる。

「木材屋さん」っていうのもね、 たぶん今とは違う感じで。 どちらかというと、 木材置き場みたいな感じになってるんじゃないかと思うの。 必要な人が、そこから持っていく。 大工仕事に詳しい人がなんとなくそこにいたりして、 「それを作るんだったらこの木がいいよ」って教えてくれたりする。

赤ちゃんのベッドをつくるのも一緒に手伝ってくれたりもする。 じゃあ、木材屋さんに木材を持ってくる人はどうなのかって? 多分ね、木材を必要としている人がいるって知ってるから、 「必要な人のところに届けばいいなぁ」と思って、木材を切ってきて運ぶんだよ。 森や木が好きだから、どこからどれくらいまでなら採ってきていいかも、ちゃんと知ってるの。

洋服屋さんとか、 家具屋さんも同じかもしれないね。 洋服置き場、みたいなところがあって、 生地を作るのが好きな人が、生地をつくって置いていく。 そこの生地から、服をつくるのが好きな人が服をつくる。 つくった服を、そこに置いていく。 そして、その服を気に入った人が、持って行って着る。 服を好きな人たちが集まるから、 服好き、生地好きのおしゃべりの場になってたりしてね。

そうして、今度こういう服つくってみたいから、 こんな生地つくってくれない?みたいな会話が生まれたり。 そのとき、縁のあった人と繋がる感じ。

そこに詳しい人、得意な人は「生地つくりなら、○○さん」みたいに頼りにされるだろうけど、 だからって、そればっかりやってるワケじゃなくて、 「その生地の柄ステキだわ!このジャムの瓶のラベルにしたい!」って言われて かわいいジャムの瓶のシールを作ってみたり。 時にはハーブティーをブレンドしてたり、 知り合いのお店の掃除を手伝ってたり。

一人ひとりが、色々なことをやっていると思うの。 それぞれが「今、これがしたいな」と思うことをただシンプルにやるだけなの。 自分の好きなことのどれかひとつだけじゃなくて、全てが活かせる世界。 だって、意外な人が、意外なこと得意だったりするでしょ? それが全部活かせたら、 もっともっと世界は豊かになるんだよ。

苦手なことはしなくてよくなるしね。 下手な人もいるだろうけど、 それが好きな人が作るものは、下手でも丁寧に作ってあるだろうし。 不恰好さが好き、ってのも、あるでしょ??(笑) 服をつくるのが得意、と言っても、 「縫うのが得意」とか「デザインが得意」とか微妙に違ってたり、 「布を切って合わせて、それが形になっていくのを見るのが好き」って人もいたりして。

「好きなポイントが人それぞれ違う」から、 人の数だけバリエーションがあるの。 だから、案外バランス取れちゃうんじゃないかと思うんだよね。 自分のできないことは、誰かがやってくれる。

ただ、自分にとって自然なことを、感じたままにやるだけ。 それで、パズルのピースがはまるみたいに、全てが上手く流れていく。 世界って本当はそうやってできている気がするの。 だから、いろんな個性を持った人がいるんだよ。

「あぁ、この世界ってなんて完璧なんだ!」

「ありのままが素晴らしいってこういうことなんだ!」

その完璧さ、素晴らしさがむしろ宇宙の「当たり前」なんだと思うんだ。 ほら・・・地球が、生命が、宇宙の奇跡のような「偶然」の積み重ねで成り立っているように。 欠けているものなんて何もないのかもしれない。

何かが欠けているように見えるのは、私たちが自分の一部しか表現できない社会をつくっているからだとしたら? ひとつの魂が、この世界で表現しようとしていることのなんと壮大なことか!

私たちは多面的な存在で、到底、ある一面だけで表現できるものではないんだよ。 そして、どれも欠けることなく自分なんだ。 あなたは、私は、 どんな自分を表現しようと、地球に来たのだろう?? もっともっと、地球は自由な表現をできる場になるんだよ!

↓動画

たったこれだけのことで実現は簡単になる!みんながやりたいことだけやってうまくいく世界に必要不可欠なこと

ここまで引用。

たとえば、こんな世界がお金のいらない社会のイメージです。もし、この世界からお金が消えたら、あなたはどんな社会をイメージしますか?

日土水むらというコミュニティ

お金がいらない社会を目指す、なんて考えていますが、考えているだけです。

行動してはいますが、そもそも人と一緒になにかをやるという発想が僕にはなかったりします。そんな僕が日土水むらというコミュニティをつくろうとしています。

もしよければ、楽しそうだなぁと思ってくれたら力を貸してください。あなたにアイデアがあれば、みんなでカタチにしていきましょう。

みんなで学びあい助けあう。寄ってたかって、だれかの夢を応援する。そんなコミュニティを日土水むらは目指しています。

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